【橋本左内が大阪の緒方洪庵先生の適塾の生徒であった時の
優しい人柄を知る福沢諭吉とのエピソード】
学問は実際に世間に
役立たなければならない。
幕末のころ、大阪の緒方洪庵の
「適塾」には
全国から優秀な若者が集まった。
緒方はオランダ流の医者だったが
あらゆる分野にわたっ て学問が深い。
そのため集まった門人達は
医学だけでなく
科学、 兵学その他いろんな学問を
学んだ、その中に福沢諭吉や
橋本左内もいた。
塾長は福沢が務めていた。
橋本は夜になると、必ず塾を
こっそり抜け出た。
福沢が気がついた。
ある夜、また橋本が塾を
抜け出すのを
見た福沢は、
(あいつ、美男子
だから女でもできたかな。
ひとつ尾行してやろう)
と考え、そっと後をつけていった。
とある橋の下に、
橋本が入っていく。
福沢はそっと覗いた。
橋の下には、
家のない放浪者が何人かいた。
橋本の声が聞こえた。
「具合は大丈夫か」
「ああ、お前はだいぶ
よくなったな。
明日からは歩けるぞ」
そんなことを言っている。
福沢はハッとした。
もっと覗きこむと、橋本は
一人一人の放浪者を
親切に看病したり、
診察していた。
福沢は思わず
(そうだったのかと気がついた。
そして、橋本の毎夜の塾脱出を
「女ができて夜遊びを
しているのだろう」
と考えた自分の精神の
卑しさを反省した。
診察を終わって堤の上に
上がってきた
橋本を福沢は呼び止めた。
橋本はびっくりした。
「福沢さん、こんなところで
一体何をしているのですか?」
眉を寄せて聞く橋本に、
福沢は正直に自分が
尾行したことを語った。
そして「すまなかった」と謝った。
橋本は笑って手を振った。
そしてこう言った。
「適塾で学んだことを 私は実際に
試してみたかっただけです。
学んだことがいま生きている人に
役立たなければ、
そんな学問は死に学であって
実学ではありません」
福沢は橋本の言った言葉を
胸の中で繰り返した。
福沢は後に慶応義塾を開く。
ここで学生達に教えた基本的な
考え方は全て、
「学問は実際に
役立たなければならない」
ということであった。
具体的な次のような教えだ。
1.毎日起こっている
社会問題を
自分のこととして考えてみること
2.考えたことを必ず
文章にしてみること。
3.その文章は、
昨日地方から出てきた
お手伝いさんでも
わかるように書くこと
4.特に難しいことを
わかるように書くこと。
5.文章ができたら、
それを暗記すること。
6.そして街頭に出て
通行人に語りかけること。
7.もし通行人が
立ち止まって
耳を傾けるようなら
その意見は本物であること
維新直前、江戸では
上野の山に籠もった
旧幕府軍を、新政府軍が
攻撃していた。
飛び出そうとする学生達に
諭吉は言った。
「行くな。学べ。
学ぶことが今の君達の義務だ」
↑福沢諭吉
↑橋本左内
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