第十五 度量
西郷隆盛が江戸の鹿児島藩の屋敷に住んでいた頃、或日、友達や力士を集めて庭で相撲をとっていると、取次の者が来て、
「福井藩の橋本左内という人が見えて、ぜひお目にかかりたいと申されます」
と言いました。一室に通し、着物を着かえてあって見ると、左内は、二十歳餘の、色の白い、女のようなやさしい若者でした。隆盛は、心の中で、これはさほどの人物ではあるまいと見くびって、餘り丁寧にあしらいませんでした。左内は、自分が軽蔑されていることをさとりましたが、少しも気にかけず、
「あなたがこれまでいろいろ國事にお骨折りになっていると聞いて、したわしく思っていました。私もあなたの教えを受けて、及ばずながら、國のために尽くしたいと思います」
と言いました。
ところが、隆盛は、こんな若者に國事を相談することは出来ないと思って、そしらぬ顔で、
「いや、それは大変なお間違いです。私のような愚か者が國のためをはかるなどとは、思いも寄らぬことです。ただ相撲が好きで、御覧の通り、若者どもと一緒に、毎日相撲をとっているばかりです」
と言って、相手にしませんでした。それでも、左内は落着いて、
「あなたの御精神は、よく承知しています。そんなにお隠しなさらずに、どうぞ打ちあけていただきたい」
と言って、それから國事につて自分の意見をのべました。隆盛はじっと聞いていましたが、左内の考えがいかにもしっかりしていて、國のためを思う真心のあふれているのにすっかり感心してしまいました。
隆盛は、左内が帰ってから、友達に向かい、
「橋本はまだ年は若いが、意見は実に立派なものだ。見かけが餘やさしいので、始め相手にしなかったのは、自分の大きな過ちであった」
と言って深く恥じました。
隆盛は、翌朝すぐに左内をたずねて行って、
「昨日はまことに失禮しました。どうかおとがめなく、これからはお心安く願います」
と言ってわびました。それから、二人は親しく交わり、心をあわせて國の為に尽くしました。
左内が死んだ後までも、隆盛は、
「学問も人物も、自分がとても及ばないと思った者が二人ある。一人は先輩の藤田東湖(とうこ)で、一人は友達の橋本左内だ」
と言ってほめました。
※ 西郷隆盛
•「人を相手にせず、天を相手にして、おのれを尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」
人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである。だがそこには人間としての「道」がなければならない。電信を設け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの機械を造る。こういうことは、たしかに耳目を驚かせる。しかし、なぜ電信や鉄道がなくてはならないのか、といった必要の根本を見極めておかなければ、いたずらに開発のための開発に追い込まわされることになる。まして、みだりに外国の盛大を羨んで、利害損得を論じ、家屋の構造から玩具にいたるまで、いちいち外国の真似をして、贅沢の風潮を生じさせ、財産を浪費すれば、国力は疲弊してしまう。それのみならず、人の心も軽薄に流れ、結局は日本そのものが滅んでしまうだろう。
あの西郷隆盛は左内の死を知ったとき「ああ、貴き人物を! 悲憤耐えがたき…」と落涙しその死を限りなく嘆いたという。
西南戦争で自刃した西郷の遺品に、一通の手紙があった。
それは左内から西郷に宛てたものだった。
0コメント