【橋本左内】【「明道館」で活躍したよ!】

23歳のときに福井藩の学校「明道館」の先生になり、25歳で教頭先生のような役職につき、当時の最先端だった西洋の学問(天文学・物理学・測量学・地学など)を学べるようにした。

世界に目を向けていたよ!  「イギリスなど西洋の強い国々の野心に対抗するため、比較的近いロシアと同盟すべき」など、諸外国との関係もいろいろ考えていた。


明道館 が のちに 明新館に。

明道館(めいどうかん)は、江戸時代後期の安政2年(1855年)に福井藩主・松平春嶽が設立した藩校。福井城三の丸の大谷半平(大館兵馬)の屋敷地を御用地として移転させた後に設けられた。半平は安政2年の正月、加藤郷八の屋敷を代替地として賜り移った。橋本左内が学監心得となった。明治2年に移転し明新館と改称。後の旧制福井中学校、現在の福井県立藤島高等学校へとつながる。

【橋本左内】先生の【ホームページ】

【橋本 左内】は、江戸時代末期(幕末)の志士、思想家、越前国福井藩藩士。 号は景岳。諱は綱紀。著書に15歳の時に志を記した『啓発録』(1848年)がある。 【啓発録】は後の世の【立志式】の元となりました。 心友の【西郷隆盛】は【橋本左内】の手紙を亡くなった時、肌身離さず大切に持っていたのは有名な逸話です。